東海道新幹線のぞみ号のスピード

 京都への出張で久しぶりに東海道新幹線「のぞみ号」に乗った。
 東京駅を出発すると川崎まではビルまたビルか家また家である。当然田んぼや畑などあるはずもない。学校の校庭は狭く、道路も狭い、隣の家とは窓を開ければ、おしゃべりができるような感じもするほど隣接している。耐震性が施されていないような古い家も目立つ。
 横浜近郊になるとマンションやアパートが目立つようになる。ベランダには洗濯物や布団が干されており、生活感が漂うが「隣は何をする人ぞ?」という感じで、隣付き合いはほとんどされていないのではないかと思う。墓地や林なども目立つようになり、高い木々もある。丘や小高い山を切り土して立てられている家々が目立つ。
 各家やアパートマンションにはそれぞれの生活があり、喜怒哀楽がある。一体何を考え、何を目指して生活しているのだろうか?生活は楽しいのだろうか?家族仲はどうなのか?おいしい物は食べているのだろうか?学校は?職場は?と考えると、生活の利便性や快適性を追求し、効率性、経済性が凝縮された都市生活の実態はどうか?と思いを馳せた。
 小田原の近くになると、相模の山々、整備されていない田畑、放棄された田んぼ、田舎の風景が現れたが、日本の原風景はどんどん少なくなっている。
 品川から名古屋までノンストップの「のぞみ号」なので、1時間も走ると浜松の手前まで来た。正に夢の超特急、ひたすら走り続けているという感じだ。
 20数年前、ASEANの農業実習生を京都への研修旅行に引率していった頃は、東京で新幹線に乗ると車内を案内して上げたものだ。小田原城や熱海の海そして富士山を紹介しながら「旅行気分」を感じながらの移動であった。ビュッフェや食堂車もありたまにはコーヒーを飲んだりしながら、車窓の風景を眺めたものだが、今の「のぞみ」にはその余裕も設備もない。
 JR東日本の新幹線に比べ、JR東海の新幹線の席のスペースは十分ゆとりがあるが、時間的なゆとりは殆どなくなってしまったことに何か寂しく感じた。
 野球でピッチャーが投げる球が速くて打てないつまり150キロくらいが人間の速度の限界のように思う。200キロを超えるような「のぞみ号」のスピードは既に人間の能力を超えるスピードであり、それを楽しんだり、体感したりすることの出来ないスピードなのではないかと思う。
 スローなリズム、速すぎないリズムを取り戻せば、より人間的でそして優しくなれるのではないかと思った。