自分勝手と裁判員制度

 今日の新潟日報新潟市市営住宅での近所迷惑を掛けている生活保護を受けている住人のために、隣の部屋は現在空室状態である。「たくさんの人が入居を待ちしているのに?福祉なのか市営施設の有効利用なのか?」というテーマであった。現代社会は「自分勝手」を看過することがしばしばある。
 注意などしたらその問題に巻き込まれてしまうのではないか?
 一時的に我慢し見て見ぬふりをすればいつか時間が解決してくれる。
 自分は注意する立場ではない、公がきちんと注意すべきだ。
 注意して嫌な思いをするなら「自分勝手」から離れた方が賢い。
 
 「自分勝手」が明らかに悪いのが分かっているのに上記の理由で、自分では注意したりや怒ったりすることが出来ない。
そのことを棚に上げて、公の仕事をしている公務員や先生そして政治家等に言いつけ、上手く行かないと今度はそれらの人を批判する。その自分も正に「自分勝手」である。
 世の中一体どうなるのであろうか?

 たまたま最近法律の本を見ると、社会常識的から云えば、絶対悪い犯罪者にもそれなりの言い分があり、どんなに社会的に悪いと思われている者にも弁護士が付く。それは人間が定めた法律の解釈をどうするかによって、如何に社会的な悪であってもその法律の解釈によっては「嘘も方便」の如く悪を救うことが出来るのである。

 宗教のように「○○は駄目」「○○は良い」というようにはっきりと白黒が付いているものに対して、法律は裁判官、弁護士、検察官そして法学家がそれぞれその時々に応じた解釈で判断することで人が裁かれてきた訳であり、人が変われば裁判所が変われば裁きも変わることもある現実において、来年度からの「裁判員制度」が上手く行くのであろうか?
 加えて、このように見て見ぬふりが多い国民、おかしな事に巻き込まれたくない国民に「裁判員制度」が馴染むのであろうか?と大きな疑問を感じる。
 司法を身近に!という目的は良く理解できるが、見切り発車的しておかしな問題が起きなければ良いと懸念している。