ユニバーサル農園芸えちご の思想

 現在信濃川河川敷をフィールドに活動している「ユニバーサル農園芸えちご」の目指すべきものは?との問い掛けに我らが同胞:とちおワークスの小林克太郎さんから投稿頂きましたので、以下に紹介したいと思います。是非、みなさんもご意見をお聞かせ下さい。

『我々の生活の中で農という生きて行く為の大切な方法論は廃れ、お金さえ払えば安くて美味しいものが簡単に手に入ることにより食という文化が低下を始めています。当初の我々の事業は農という思想を基にして市民に警鐘を鳴らし、農から手触りのある生活を考えたり、基本的な食というものを文化として修正することが大きなテーマだったように思います。その流れと同時進行で農業と障がい者は相性も良く、農業への雇用も考えて行けないかという話が出てきたように記憶しています。丁度農林水産省の方向性ともマッチして何かが生まれそうな予兆を感じさせました。日本は優秀で資本力のある商社が多く世界で一番美味しいものが揃う国にいつの間にかなってしまいました。その為、食糧難で餓死する人達が存在する中で、日本ほど食糧が廃棄される国も少ないようです。「もったいない」という日本語が世界共通語になりつつあるというのに皮肉な事です。しかし、もったいないからと安易に残り物を使い回し、利潤だけを追求するような高級料亭は問題外ではあります。簡単に手に入るものだから子供達は食やそれを作る人に敬意も尊敬もしなくなっているのかもしれません。「いただきます」「ごちそうさま」も本当は美しい日本語であるはずなのに形骸化しています。食を守る人が日本から消えようとしています。農業も漁業も畜産業も日本で生産する事で儲からないし、外国のものと競争できない業種となっています。大問題なのですが解決する為には政治力なのかあるいは市民力なのか正しい思想と大きな力が必要です。
 その解決を障がい者がやれたら素晴らしいことです。障がい者は偏見に普段さらされている方なので、一般市民より物事がフラットに見える部分があります。農業の後継者を障がい者が担い日本の農業を再生させるなどという事は出来るはずもないかもしれません。しかし、現在我々が持っている問題意識をこの地域にて可能な部分を繋げて我々の生活の範囲を少し変える事はできます。それは、この2年間の実感として、同じような考えを持った同じような感覚を持った仲間が積極的に宣伝をした訳でもなく、いつの間にか増えています。ここでもう一度イメージや意思統一を計り継続性を持った活動として、みんなで力を合わせて行けば何かが出来ると思います。我々の活動で最初に行うべき事は共通認識によって何を目指すかという部分を確認することではないかと思います。
 何回かの会議で不安に思ったのは、暑くて大変だからもっと簡単にできるようにという意見でした。確かに要らない労力を掛けるべきとは言わないですが、米でもイモでも作るのは大変です。だからそうやってできた作物は大切にしなければいけないという考えが生まれるのではないでしょうか?だから豊作だったら人々は浮れて躍り出し、祭になるのではないでしょうか?今回は大変な時に不参加だったので大きな事は言えないのですが作物を生産するという事はそういう部分を必ず含んでくると思います。1Kg数百円でしかないジャガイモだけど、それを作るというプロセスは大変なんだと言う事を知る、そういう所も良い体験だったのではないかと私は考えておりました。当たり前のことが当たり前で無くなっている昨今、こういう体験をもっと多くの市民と分かち合い意識改革をしていただきながら我々の味方や理解者を増やしていく事が事業として重要なポイントであると考えます。そういった現在の市民生活者としての感覚のズレをこれが正しいとかではなくこういう考え方もありますという切り口で発信すべきと考えます。そして、そんな社会だからこそ障害者の存在もズレがあると感じています。それは基本的な構造は食糧問題とシンクロしています。そもそも合理的な物だけしか価値を認められない社会はおかしいと私は感じます。例えば、教育で障害者と健常者を一緒に同じ場で教育する事を統合教育と言いますが、統合教育の方がいじめや不登校が少ないそうです。ただ学力を一番に考えたら効率として点数でクラス単位に分ける方が良いでしょう。しかし統合教育では学力競争だけでなく協力関係も必要とする当たり前の人間関係が自然な形で存在し、その中で生徒達は色んな体験をします。人間は他者に依存しなければならない弱い存在なのです。ロビンソン・クルーソーでさえ完全に一人で生きた訳ではありません。文明や教育が彼を支えたのであり所詮一人の力では生きて行けないのが人間です。必ず他者からの助けが、衣食住全てに必要であり、それが根本的な人間の存在形態であります。お金を介在する為に気付かない人が多いかもしれませんが、好むと好まざるに関わりなく人は他者の為に活動することが社会の中での基本的な姿です。そこには、弱者をどうするとか可哀想な人達と接すると言う事以前に、自分の為に生きる事が同時に他者の為に生きる事でもある人間という存在が行き着くところは、お互い様の社会ではないかと考えます。それをインクルージョンと呼んだり、共に生きると言いますがなかなか考え方として現代社会の構造とマッチしない思想なのでしょうか。しかしそういう事を当たり前と思ってくれる市民が一人でも増えて行く為の運動体であって欲しいというのが、この会に一番期待する事です。その考え方に照らすと障がい者も健常者も全く等価の存在で真に自由で平等という事です。
 さて、今後の展望ですが、個人的には我々の団体は自由に市民を巻き込んで行く協議体であることを希望します。収益を出して就労を支えるというのであればNPOなり方法はあるのですが、収益が大きく成れば成程に支給の方法が難しくなりそうです。それよりも重要なのは委員の意思統一が可能かどうかという事に尽きると思います。後は戦略として、例えば収穫の際単価が高く楽なものを選ぶのか加工等で付加価値を付けるのかどういう枝葉を付けて行くかという事です。技術は必要ですがアスパラみたいなものを栽培するとか、ジャガイモを収穫したら長岡の花火の時にフライドポテトにして売るとかそういった戦略を考え実行できるか?という事ではないかと思います。付加価値がついてくれば自然に配分も増えその額が一定量を安定して示すようになれば事業として雇用を考える事も可能となって来ると思います。NPOで就労継続支援A型を使うと言う手もあるでしょう。雇用をテーマとすると社会保険最低賃金つまり法人等のきちんとした組織にしなければならない事を真剣に考えると言う事が必要です。戦術について記載すると紙面が足りなくなりそうなのでこの位で終わります。』