議会質問

「一般質問の回数制限」で新潟県議会は大もめしており、その制限も導入された様子である。
 我が長岡市議会も先般「議会活性化見当委員会」を立ち上げ、議会の有り様、議員の有り様などについて積極的に話し合っており、それぞれの立場の議員の意見集約が図られ、議会のチェック機能、政策立案機能を高められる議会運営を目指して進んでいるように思うし、小生も委員の1人として参加しているが、現在の委員会の取り組みは長岡市議会の誇りである。
 さて、議員にとって「質問」とは一体何なのか?昨今の国会中継を見聞するに、質問は正に議員、政党の選挙パフォーマンスに見えて仕方ない。
 国の政治制度は「議院内閣制」であるから政党優先であるのは仕方ないと考えるが、余りにも政党の政策(選挙に勝つための政策)が強く出され、議員自らの意見や考えが国会内で発言されることが少ないように思えてならない。「発言している議員の考えは本当にそうなのだろうか?」と思うこともしばしばだ。
 昔は自民党で一緒に活動していた民主党議員が、自民党が提案してきたものに対し真っ向から反対しているのはどうも簡単には理解できない。
 では、次に政党とは何なのだろうか?選挙に出るための母体なのだろうか?「大きな政党に入り、選挙支援して貰うことで議員の地位が確保できる」そのように考える議員は少なくないのではないかと思う。特に昨今、議員がタレントと同じようにテレビ番組に頻繁に出て、露出度を上げ知名度が上がれば選挙は安泰。このような状況から考えれば、議員がこぞってマスコミ受けする発言、大衆受けする発言に終始するのも理解できる。
 確かに国会中継はテレビで見ていてもラジオで聞いていても面白い。日本で一番偉いと言われている内閣総理大臣はじめ閣僚が、議員の質問攻め詰問責めに合っている様子は、「判官贔屓:はんがんびいき」の日本国民性からして面白く映るのだと思う。しかし、人の足を引っ張ったり、責任問題に終始したりして、大切な問題を放置しているのも現在の国会ではないかと思う。
 議会での質問制限はこのような議員のパフォーマンスが横行する国会の現状から憂慮されて出てきた動きではないかと思う。
 しかし、市町村議会議員は「現場を持った政治家・現場と生活する場が一致する政治家」として市民の声を直に聞くことができ、そしてその声を政治に反映する。つまり質問したり、意見を言ったりすることこそが議員の責務であると考えるし、その質問、意見を内容の如何に拘わらず制限することはもっての他である。もし、そのような考えが横行するのであれば、日本の地方の議会制民主主義はなくなったも同然だと思う。