信濃川大河津資料館と治水のあり方

古図

 旧分水町、大河津分水の袂にある「信濃川大河津資料館:http://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/ohkouzu/index.html」を見学してきました。三条以北の新潟平野を現在の米どころにし、そして新潟市の発展に大きく寄与した大河津分水の建設は、歴史に残る分水「横田切れ」の大洪水を経験した後、江戸時代からの悲願叶って明治42年に再開され、大正11年に通水されました。多くの人力、経費そして新しい技術が投入され完成された大事業であったとの紹介ビデオを見ました。
 そもそも江戸時代以降昭和年代に至る水との戦い:治水は、貧しくて食えなかった百姓が少しでも収入を増やそうと、稲の作付けが出来ない条件の悪い所に新田開発を行い、その田を守ることから「水との戦い:治水」が始まったと思います。
 縄文の昔は、水の漬く所に人は住んでいませんでしたし、農耕も始まっていなかったので、敢えて危険な場所には人は住んでいませんでした。
 江戸時代になり、戦(いくさ)がなくなり世の中が平和になると人口も増え始め食糧供給が追いつかなくなり、各地で新田開発が行われました。それまで湿地帯や湖沼であった所に新田開発が行われるようになりました。つまり当時の治水は農業を守るためのものであったと考えられます。
 しかし、食糧供給の6割以上も海外に頼るようになった近年は、治水の目的は農業の生産基盤を守ることよりも、住民の生活基盤・安全性を守ることに移っています。住居を浸水被害から守るための治水事業です。
 これも経済優先の原理で、昔水の漬いていた危険な場所を埋め立て、そこにどんどん家を建てる。その後、水が漬くからといって多額の治水事業費を投入し付け焼き刃的な対処をしているのが現状です。
 大都市への一極集中、山村の放棄、乱開発など国土保全が疎かにされたこと、加えて、近年の地球温暖化に伴う異常気象による集中豪雨等、治水事業の重要性は益々高まって来ています。

 現在私の地元でも稲葉川改修事業が本格的に開始され、大河津分水同様の稲葉川放水路事業も並行的に進められています。このように治水事業の意味合いは、農生産から住民生活を守ることに変わって来ましたが、今も昔も水を治めるには多くの年月と経費が必要なのは変わっていません。 
 人口減少傾向が見え始めた今、治水ありきの新たなる開発を見直し、土地や地籍の情報公開を積極的かつ適格に行い、安全で安心できる場所に家を建てさせるよう行政が主導すべき時かと思います。