興ざめのオリンピック

 オリンピック初日、金メダルの期待が一番であった谷亮子が準決勝で警告負けした。
昨日のちびっこ相撲の様に技と技、力と力のぶつかり合いではなく、審判の判断で勝負の決着がついてしまったという感じである。
お互い警戒し合って組み合わない、結局「判官贔屓:はんがんびいき」のような感じで、終了間際、オリンピックチャンピオン:谷のみに指導が入り、技ありと同等の「警告」になってしまい、既に時間遅しで、無念の敗退である。
彼女の4年間の積み重ね、そして多くの日本人選手の代表として参加したオリンピックの試合がこんな感じで終わってしまう柔道は本当にどうかしている。
 「柔よく剛を制す」をモットーに嘉納治五郎先生が創設し44年前の東京オリンピックからオリンピック種目になった柔道、その後国際化が進み、ソ連国際柔道連盟を牛耳り、「柔:道」から「柔:スポーツ」に変化し、従来の柔道の精神が何処かへ置き去りにされてしまい、今の国際大会は、審判の前で上手く立ち回り、時間を見ながら試合を進めていく「ずるさや」「せこさ」が勝利の秘訣になってしまったかと思うと、正に情けない話である。日本のオリンピックの父:嘉納治五郎先生はきっと天国で呆れているのではないかと思う。
 神永がオランダの巨人アントン・ヘンシンクに力で負けた時の日本全体の落胆は大きかった。しかし、今日の谷の敗戦は落胆というより「運が悪かった、間が悪かった」という負けであり、一体柔道の勝負とはなんなのか?と思わせる試合であった。
 狩猟民族は、有史以来、相手を凌駕し切れらなければ、いつまでも殺し合いを続け、結果、民族が絶滅してしまったことも少なくない。それらの歴史をもっているヨーロッパで育ったスポーツは、適当なところで、時間や何か別の決め事で勝敗を決し、止めてしまうという傾向があるように思える。
世界一のスポーツであるサッカーなんかも、決着が付かなければ、最後はPK戦で勝敗を決めることに未だ理解・納得ができないのは私だけだろうか?何故死力を尽くして最後まで戦わないのか?と思う。今回の野球の延長戦のルールも正にサッカーと同じ考え方である。
柔道の試合を見ていれば、日本選手やアジアの選手は正に練習で鍛えあげた肉体で臨んでいるが、ヨーロッパの選手等は僅か5分の試合で息切れしている選手も少なくないが、それらのヨーロッパの選手に負けてしまう。
鍛え上げた肉体の技と力そして頭で、正々堂々、最後まできちんと決着をつけさせるルールにしなければ、益々柔道の人気はなくなってしまうと思う。
柔道が大衆化し国際化した事に関しては大いに評価したいが、大切な「道」を何処かに置き忘れてしまい、只単なる駆け引きのスポーツとなってしまったことは、ヨーロッパ人に「軒を貸して母屋を取られた」という感じである。
学生時代柔道を志し、一度は柔道を通じて国際協力に貢献したいと青年海外協力隊を受験した一人として今日の国際柔道の有様は大変残念に思う。