終戦と降参

 8月15日はこれまで「終戦記念日」と言われ続けてきた。多分この呼び名は当時の軍や政府の思惑で「負けたのではない、戦争を終えたのだ!」という感覚から命名されたものではないかと思います。
 さる7月1日の長岡戦災資料館リニューアルオープンの時と8月1日の平和祈願祭の中で、長岡空襲で父と姉を亡くされた方のお話のなかで「戦争がもう15日早く終わっていたら父と姉を失わなくて良かったのに!」という言葉が忘れられません。6月初めに訪問した広島でも「もっと早く戦争が終わっていたら?」との問い掛けがありました。
 1982年最初にドイツへ行き農家実習していた時に、日本で言えば大正や昭和一桁生まれの、丁度私の父と同年配の方々に「お前は日本人か?日本人は偉い!一番最後まで戦っていた!ドイツは日本よりも早く5月8日に降参した。しかし、イタリアはもっと早く降参した。次回はイタリア抜きでやろうな!」と言いながら、お酒をご馳走してもっらたことが何回かありました。きっと戦争担った軍人経験者は、大戦当初の快進撃からアメリカが参戦したことで負けたことへの悔しさを、酒を飲みながら日本人の若者にこぼしていたのだと思います。
 しかし、考えてみれば日本もドイツ同様5月に降参していれば、原爆投下も長岡空襲もなく日本の歴史も大きく変わっていたのではないかと思うと、ドイツ軍人の無縁さよりも、早く降参したというメリットは今は大いに評価されると思います。
【蛇足】
 何れにしても本来の戦争は「憎しみ合う同士」が戦うことかと思いますが、社会がグローバル化すればする程、全く憎悪関係のない者までを戦争に巻き込み死傷させ、そしてそのことで、死傷させられた者は、その死傷させた者に対し、新たな憎しみを持ち、戦争を拡大して来たのがこれまでの歴史ではないかと思います。原爆を落とし空襲した相手国も悪いと思いますが、国家の名の下に国民を洗脳し戦争という奈落の底に導いた当時の指導者の責任はもっと大きいと思います。加えて何故そのような戦争に突入したのか?そして戦争が拡大していったのか?を再度十分に検証することをが必要ではないかと思います。
 「政教分離」という言葉で、政治と宗教が合体したことで大きな過ちを犯してしまったと戦後直に検証したがために、戦後日本は「無信教の国」のように国民は錯覚し、宗教を持つことを煩わしく思う人は少なくなりません。
 宗教や哲学を持たないことの弊害が、今社会に現れているのではないかと思います。因みにヨーロッパでは「あなたの宗教は何ですか?」と聞かれ「無宗教です」と答えれば、ほとんどの人が怪訝な顔をすると思います。
 政治が宗教を利用したり、宗教が政治を利用することは良くないと思いますが、生きる糧となる宗教を持たない国民では、今後どのような国になるのか?宗教や哲学を持たない人は国際社会では認めらず信用されないと思います。
 日本における宗教・哲学についてもっと議論していかなければならないと思います。
 今日は戦争で無縁の思いで亡くなられた御霊に手を合わせたいと思います。