ユニバーサル農園芸えちご の目指すもの

 3日前の とちおワークスの小林克太郎さんから投稿に遅れ、私の思いを書きましたので、是非、みなさんもご意見をお聞かせ下さい。

『人は誰も障害を持っています。それを障害と言うか言わないかは障害者手帳等を持っているか、つまり障害者であるか無いかは法律・人が決めていることであり、そのことで人を差別したり偏見の目で見たりしてはいけません。
 しかし、社会は障害を持った人たちを「身体」「知的」そして「精神」と名づけ区別すると同時に、ややもすると社会の片隅に追いやり、隔離してしまっているのではないかと思います。
 ユニバーサル社会が叫ばれて久しいですが、残念ながら障害を持った人達の社会参加はまだまだであり、また、それらの人たちが社会参加するための環境整備もまだまだです。
 我々『ユニバーサル農園芸えちご』が目指すべきことは「障害のあるなしにかかわらず、自ら希望する市民誰もが、農園芸(畑)というフィールドで、皆一緒に汗を流し、それぞれ一人では出来ないことを皆で一緒にすることでそれを可能にすること」を目的に、農園芸の作業を通して具現化する試行をしています。よって我々『ユニバーサル農園芸えちご』の活動は常に、市民:障害を持った人、子供から年寄りまで、皆一緒になってやることに意義があると考えています。
 世の中失業者が多くなり、社会不安がどんどん増しています。一方、周辺を見れば農地は荒れ、公園や街路の花壇は雑草で覆われ、路傍の草は抜かれることなく生い茂っています。「それらの管理は公共の仕事、そんなものに関わると損をする」といった考え方が横行しているのではないかと思います。このような現在見捨てられている農園芸や社会環境整備の仕事を『ユニバーサル農園芸えちご』が率先して行うことで、障害者の活躍する場が創設され、障害者の社会参加が活発になるのでないかと考えます。
 もうひとつ言えることは、これまでの社会は強い者が中心となって動いて来てはいなかったか?また、箱の中に囲い込まれた障害者はじめ弱者は、その箱を管理する者の都合により動かされては来なかったかという疑問です。ゆっくりの時間の中であれば例え障害あってもある程度は対応できる筈ですが、強い者のリズムに合わせなければならない現代では、障害を持った人は常に落ちこぼれになってしまっています。それらの落ちこぼれを落ちこぼれとするのではなく、一寸リズムを考えてやれば、素晴らしい働きをするのだということを認める時間を持つ、言い換えれば『待つ余裕』を社会全体で作ることが大切だと考えます。』