ドイツ再訪の旅 3

ベルリンドーム(大聖堂)

 『様変わりしたベルリン』
 私が初めてベルリンを訪問したのは、まだ壁があった1983年の1月でした。
 当時西側の西ベルリンから東ベルリンへ行けるのは外国人のみの特権でした。
 現在のベルリン中央駅よりひとつ西側にありますFriederichstrasseの地下鉄駅に検問所があり、そこで強制的に西ドイツマルク25マルクを東ドイツマルク25マルクに両替することが所謂「日帰りビサ」の代金でした。
 当時1西ドイツマルクで5東ドイツマルクが買えましたので、価値は1:5ですので、1:1で交換することで東ドイツは得をした恰好です。
 加えて、西側から東側へ入る訳ですので、西側の新聞、雑誌等は当然持ち込み禁止です。持っていれば全て没収されましたので事前にしっかりと身支度をして行きました。
 また、写真なんかも勝手に撮ることは出来ず、一緒に行ったアメリカ人は、撮影禁止場所で撮影したということで、警察に連行され、カメラの中のフィルムばかりでなく、持っていたフィルム全てを没収され、加えて幾らかの罰金も取られたという、一寸怖い時代の一日体験でした。
 換金した25東ドイツマルクは、西ベルリンへ帰る際に持ち込むことが出来ないので、東ベルリン内で、その日の内に使わなければならない訳で、物資の乏しい当時の東ベルリンで、25マルクを使い切るのは容易ではありませんでした。結局ロシア人が被る帽子と日本円が飛び出す位小さな革の財布を買って帰ってきたのを今でも思い出します。

 次に東ベルリンを訪問したのは、2年後の1984年の大晦日の晩でした。
 一昨年亡くなった父を連れて、是非、東側の国を見せてやりたいと考え、ベルリンに2泊、ライプチヒに1泊の3泊4日の東ドイツの旅の初日でした。
 当時外国人が泊まれるホテルは東京でいえば帝国ホテルの様な高級ホテルだけでした。しかし、高級ホテルといっても先程の為替の差のお陰で、80西ドイツマルク程(当時日本円では7千円)で泊まれたのは一寸驚きでした。
 高級ホテルの大晦日の晩は、一流の歌手が歌い、そしてダンスをしたり食事をしたりして賑やかにしていましたが、正月を初めて日本以外の国で迎える父にとっては、大きなカルチャーショックのようで、なかなか落ち着いて眠れなかったようです。
 元旦9時過ぎの東ベルリン、ブランデンブルク門に通じる通り「Unter den Linden ウンター デン リンデン」は、元旦としては早朝なのか?私たち親子以外ひとっこ1人歩いていませんでしたが、1人車の雪をのけていた人が、たまたま日本大使館に勤める日本人の方でしたので、父は大喜びで色々と話をしたことも思い出されます。

 さて、今回は元旦の夕刻から4日の朝まで2日半の間ベルリンに滞在しましたが、ベルリンを分断していた壁が無くなって既に20年以上が経過。
 当時袋小路の終点であったブランデンブルク門は、今はベルリンの中心に聳える門となり、門に通じるウンター デン リンデン通りは、観光客を乗せた2階立てバスが駐車し、大勢の人々で賑わっていました。
 新しいビルが建ち並び、東の時代黒く汚れていた建物は改修され、本当に明るくなり、東ベルリン時代のような暗い陰は全くなくなり、自由に写真を撮り、そして手荷物検査もなく、本当に平和の有難さを実感しました。

  ※赤のベルリン市庁舎

  ※ドイツ連邦共和国国会議事堂(Bundestag)

  ※壁を超えようとして射殺された人たちの十字架

  ※旧東ドイツの大衆車 トラバンテ

  ※旧東ベルリンの中心地 アレキサンダープラッツ(広場)

  ※チェックポイントチャーリー(車で行き来する際の検問所)

  ※共産主義の教祖 マルクス・エンゲルスの像